昭和五十七年二月十三日 朝の御理解
x 御理解第八節 「子供の中にくずの子があれば、それがかわいいのが親の心じゃ。不信心者ほど神はかわいい。信心しておかげを受けてくれよ。」
昨日、一昨日だったでしょうか。佐田先生所の赤ん坊がもう四ヶ月です、なります。離乳食を与えたい、というお届けがあったんです。なかなか乳が出ませんでしたけれども、もうそれこそもう一心の信心でお乳も恵まれるようになっておかげを頂いて、もう四ヶ月になるとやっぱり離乳食。親が子供を育てるという事は、まあ手塩にかける、というが本当に、まあ当然の事ですけれども、その、親の思い、というものは大変なものである、と同時に苦労であります。勿論苦労を苦労と思わずに育てます。
段々成長するに従って親の思う通りにはならない。今度は反対に親の言う事を聞かない、という事になったり致します。まあ、親って馬鹿らしい思いが致します。本当に可愛い可愛いで育てたか、と思うとそれが自分の心から離れていく、という事になったら。私は今日屑の子ほど可愛いと仰せられる。親の言う事をきかん子ほど親の情は募る。まあいうならば親の言う事をきかん子が一番つまらん、とまたの御理解にありますが、信心を頂いて、まあ一応段々信心がわかり信心を頂こう、という事になると真の信心をさせて頂きたい。真の信心を頂きたい、とこう願うのですけれども、果たして真の信心を頂こう、とする精進が出けておるであろうか、なされておるであろうか。
これは信心を頂いておるから良い子という事ではない。信心を頂いておっても、いうなら親の言う事をきかんなら、また親としてはこんなつまらん事はないし、また親に不憫な思いをさせなければならない。私共の、信心頂く者の一人一人が、ね。真の信心を願いながら果たして真の信心にならして頂く精進とか努力をしておるだろうか、と思うて見なければいけません。一心にお参りを致しております、お話も頂いております。けれどもそのお話が自分の身についていっていない、とするなら、言う事を聞いていない、という事になるのじゃないでしょうか。
先日から鞍手の柴田さんが親子で参って、日参をされます。鞍手地区の人達は柴田さんの車に便乗してお参りが出来る。随分遠いとこですねえ。兎に角車の道路を走る車の料金だけが毎日二千二百円いるそうですから随分遠い所からあゝして毎日日参なさっておられます。それこそ一生懸命のものがなからなければ出来る事ではない。ほれでまあ親が子供の事を願わない事はない。子供が頼んでも参ると親は嬉しい。
先日もお参りをして見えて息子さんが今朝方、その、不思議な夢を頂いたから、というわけである。どういう夢を頂いたんですか、ち聞いたら、z「一本の道を歩いております、と、こちらの方には大きな蛇が、こちらの方にはおおきな鯰がおる。時々には蛇の方に身体がヨロヨロやってこう、その蛇の方へ片寄って行く。またたまにはその、大きな鯰が自分の身体がこうやっていく、という。その一本の道を歩かせて頂いておる両方に蛇と鯰がおる」といったようなお夢であった、と、ね。そいで私は、これはいつだったか、以前に頂いた事があるが、味苦魅楽という事を頂いた事があるが。みく、というのは苦しみを味わうと書いて味苦と、ね。味の素の味と苦しい、味苦。みらく、というのは楽に魅せられない、と書いてある。それは味苦魅楽の事だよ。お母さんがあなたの事をどうでも子供の幸福を願わんはずがない。なかなか、この頃からアメリカに行くというからアメリカにもやった。あの大学が良いからというから、あの大学にも受験さした。子の大学にも、と。
もう親は子供の為にそれこそ心をちりじりに砕いておるんですけども、子供は親の思うようにはなかなかならない。それでもまあ、神様にお願いしてあるから、その神様にお願いしてあるから、私はこういうはっきりとしたお知らせを子供が頂いておる。もう親の思いをそのまま子供の上に現わしておられる。ただの夢とは思われない。やっぱり合楽に、頂いておるから、合楽理念に基づいたお夢を子供が頂いた。親の思いである。ね。楽な方へ楽な方へと楽な方ばっかり傾倒してはならない。ね。願わくば信心をしてくれよ。そして真の道を覚えてくれよ、真の人にもなってくれよ、という親の願いがそのお夢の中に伺われます。ね。
それは、ね、味苦魅楽という事だと。そこでこれは私、その、柴田さんとこの息子さんだけではなくて、私共が信心を進めていく、というその心掛けとして、ね。やはりあのうここでは、楽をすると思うな楽はさせて頂け、というふうに頂きます。先達てこの御理解頂いた時に、でしたけれども、確かに楽はしょうとは思わん。楽はさせて、もうさせてさえ頂きゃいいのだから、ね。神様どうぞよろしくお願いします、というてさせて頂く、というのだから楽だ、とこういうわけなんです。
ところがこのみ教えはそんなわけじゃないです。ねえ。楽をしょうとは思うなさせて頂け。もうさせて頂く、というならどんな事でもしてよい。合楽で言われる人間が人間らしく生きる、という事、をはきちがえるとその、今言うように、ね。神様させて頂きます、という事になったら、どんな事もしていいように間違う人がまあたまにはあります。らくはもう本当に自分で楽を求めてしょうとは思いません、という生き方には神様がさせずにはおかん、という働きが起こってくるんだよ。ね。
そのさせずにおかんという働きを頂く、という事なんだ。ね。例えば私は若い時から、ま、お芝居が好きです。ま、お芝居というたら高かっても遠かっても、ま、昔は行ったんですけれども、ね。こうして段々信心させて頂くようになったら、自分から求めて芝居に行こうとは思わない、と自分に腹を決めておる。まあ年に何回か、ではあるけれども、東京歌舞伎なんかがまいりますと、ね。誰かが私と私の一緒に供わせて下さる方の分まで切符をお供えして下さったり、それにはお弁当までもちゃんとついてくる、といったようなおかげを頂いた時に、ま、許された、として芝居見物をする。そのお芝居を見るその心というものはもう兎に角有難い上にも有難い思いが出けるのです。
それをただいい芝居が来たから見に行きたい。神様どうぞやらせて下さい、というて神様にお願いして行けばよい、という事ではない。許されて、というのである。許されて、というのは今、言うように、ね。自分から求めて、ね。いうなら切符がきた、お弁当がきた、車で迎えに来て下さった、といったような条件が足うて初めてお芝居見物をする、というような、そういう生き方を私は言うのですけれども、させて頂きます、という、ね。
人間が人間らしう生きる、という事の中に、です。そういうふうに楽はさせて頂け、というのだから、ね。神様させて頂きます、というてすればよいように、ま、早とちりをする人もありますけれども。ま、この位な心掛けはもたなければ真の信心はわからん、と思う。ねえ。信心しとれば芝居も見るこつならん、楽な思いもするこつならんというのじゃない。神様が許された、としての私は楽をさして頂けるようなおかげを頂きたい。それにはやはり私共が、ね、いうなら、真の道を求めるからには、ね、やはり教えを本気で頂いかしてもらう守らしてもらう、ね。
信心は頂いておっても教えは頂いておっても、ね。それを守ろうともしない、それを心を、ね、精進しょうともしないなら、これは屑の子の部類に入るのじゃないでしょうか。いうならば言う事をきかん子、という事になるのじゃないでしょうか、ね。言う事を聞く、という、そこで勿論親もいよいよ間違いのないあり方を身につけていく為に、それこそひとつ本気で味苦魅楽の日々でありたい、ね。そしていわゆる味苦というのは、苦労の味わい、それを修行とも頂くし神愛とも頂くわけです。
それでその、苦労とか難儀とかという、その難儀の本当に味わいがわかり出したもう、楽に魅せられるような事はまずないと思うですね。それで私、柴田さん所の息子さんに約束しました。あんたがそういうお知らせ頂いたなら、それが味苦魅楽という事だから、私がそれを一筆書いてあげましょう、と昨日書かせてもらった。味苦魅楽という事、ね。皆さんもひとつこういう例えばみ教えがいつも自分の心の中に掲げてある。ね。自分から求めて楽をしょうとは思いません、と言ったような修行がね、出来ますと信心がシャンとしてくるです。
そしてそれが本気で、なら苦労の味わい、というものがね、味楽である。苦労の味わいがわかるようになったら、ね。よく、ま、信心のない子供達が、ね。親を何処にか温泉に連れて行きたい、旅行をさせたい、と言うてくれますけれども。信心のある親はね。そういう事よりも、ね。一緒に御本部にでも参拝してくれる、というならもっと嬉しいんだけども有難いんだけれども、というような意味の事を皆さんがよく言われますが、ね。いうならば修行の方が有難い。苦労の味わいがわかってくる。そこから私は魅楽、楽に魅せられるような事のないおかげが受けられる。まずはひとつ苦労の味わい。
もうこういう苦労をいつまでせねばならんだろうか、といったような事ではいつまで経っても苦労の方がはずれません。その苦労の味わいをです。成程苦しい事は苦しいです。けれども神様の心がわかる、神愛がわかる、ね。わかってくるから苦しいですけども、それよりも増して有難い、という心が募ってくる。ね。その私は喜びが、ねる楽に魅せられるような事のないおかげになってくる。ね。楽はせんぞ、といったような心にならしてもろうて、いよいよ苦労の味わいをわからして頂こう、という精神状態、心の状態は生まれた時に初めて、神様は良い子として認めて下さるのじゃないでしょうか。
屑の子ではない、いうならば、ね。あの子がおってくれるから、といったような神様の喜びの心というものが頂けるのじゃないでしょうか。参っては来る、一生懸命参っては来るけども、教えを一生懸命聞くけれども、それを守らない、と、いうならばやはり屑の子、ではないか、ね。私共は屑の子で神様に憐憫の情、哀れをもようさせるような事であっては折角信心頂いておって値打ちがない、ね。信心すればそれだから嫌だ、というふうに言う人がある、ね。修行修行という。
けれどもその修行の味わいがわかる、という事が信心の味、と言うてもよいのです。その向こうには必ず、いうなら和楽の世界がある。和らぎ喜ぶの世界がある。限りなく恵まれる世界がある。それにはどうしても一応はです。楽はせんぞ、と神様の前に誓える位の信心、ね。そして楽はさせて頂くんだ、という信心、ね。そういう信心をいよいよ身につけていきたい、と願わして頂くその心が真の信心を目指さす者の心の内容ではないでしょうか、ね。どうぞ